ジョルジュ・バルビエ 「タマラ・カルサーヴィナに捧げるアルバム」(表紙1)
George Barbier : Album dédié a Tamar Karsavina



MIDI:カール・マリア・フォン・ウェーバー 「舞踏への勧誘」
Carl Maria von Weber : Invitation to the Dance







 ニジンスキーの名パートナーとしても知られるタマラ・カルサーヴィナは、帝室マリンスキー劇場、そして同時にロシア・バレエ団(バレエ・リュス)のプリマ・バレリーナです。
 彼女はマリンスキー劇場のダンサーであったプラトーン・カルサーヴィンを父に持ち、帝室舞踊学校を優等で卒業し、マリンスキー劇場に入ります。
 二十世紀初頭のロシア・バレエを代表するプリマ・バレリーナとしてアンナ・パブロワと肩を並べる存在ですが、天才的で野心に満ち、自分で道を切り開いたパブロワに比べると、真面目な秀才タイプのダンサーで、それ故に伝説化されたパブロワの影に隠れてしまっています。
 生真面目で温厚な人柄で、ニジンスキーやパブロワのように、ディアギレフと衝突することなく、彼と友情を保ち、ロシア・バレエ団のダンサーであり続けました。
 一時はバレエ・ダンサーで振付家であるミハイル・フォーキンと恋人同士でしたが、結局はそれぞれ別な相手と結婚します。けれど2人の友情は続き、カルサーヴィナは『火の鳥』『薔薇の精』『ペトルーシュカ』など数多くのフォーキンの振付作品を踊りました。
 三つ年下のニジンスキーとは、彼が同じ帝室舞踊学校を卒業した2、3年後、1908、9年頃からパートナーを組むようになりました。
 カルサーヴィナはロシア革命(1917)が起こる2年前の1915年、英国人外交官と結婚し(再婚で、最初の夫はロシアの官吏でした)、革命後もマリンスキー劇場で踊っていましたが、1918年に夫と共に英国に渡り、1978年に没するまで、祖国に戻ることはありませんでした。
 英国に亡命後も、ロシア・バレエ団の舞台に立ち続け、引退後はロイヤル・アカデミー・オブ・ダンシングの副会長を務めるなど、英国バレエに深く貢献しました。




アルミードの館(1909)
Tamara Karsavina in 'Le Pavillon d'Armide' (1909)