絵画:Joseph Krantzinger 「フランス王太子妃マリー・アントワネット」
Joseph Krantzinger, Marie Antoinette 1771.


MIDI:ジャン=フィリップ・ラモー 「王太子妃」
Jean-Philippe Rameau, La Dauphine.

 マリー・アントワネットがブルボン王家の一員になった時、ルイ15世の王妃マリー・レグザンスカは亡くなっていました(1768)。また夫、王太子ルイ・オーギュストの母、マリー・ジョゼフも1767年に亡くなっていました。
 そんなことから、王家でもっとも身分の高いのは、新しく王家の一員となった、王太子妃マリー・アントワネットでした。
 新しくアントワネットの親族となった、王太子ルイの血縁の女性は、ルイ15世の3人の未婚の娘たち、ルイの叔母にあたるアデライード、ヴィクトワール、ソフィ、それにルイの10歳年下の妹、エリザベート内親王でした。彼女たちは、宮廷の中で、もっとも高貴で、その中でも一番がマリー・アントワネットだったのです。

 ところが、ヴェルサイユで、高い身分ではないにも関わらず、権力をほしいままにしている女性がいることに、アントワネットは気付きました。
 国王ルイ15世の寵姫デュ・バリー伯爵夫人でした。


ルイ15世の娘たち 左から、ヴィクトワール、ソフィ、ルイーズ
アントワネットが嫁いだ頃、ルイーズは修道院に入り、ヴェルサイユにいませんでした。
Daughter of Louis XV, Victoire, Sophie, Louise
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 デュ・バリー夫人は、元々はジャンヌ・ベキュという名の平民で、お針子の私生児として生まれましたが、美貌と天性の華の持ち主で、身分の高い貴族や王族を相手に娼婦まがいの生活を送った後、国王ルイ15世の目にとまり、寵姫として正式に宮廷に出入りするため、デュ・バリー伯爵と偽装結婚をし、伯爵夫人となって、ついには宮廷で絶大な権力を握るようになったのです。

 マリー・アントワネットは、母マリア・テレジアの影響で、愛妾や娼婦といった女性に、激しい嫌悪感を抱いていました。そんな女性が宮廷に出入りし、祖父である国王の愛情を独占し、権力をふるっているのです。
 デュ・バリー夫人に嫌悪感や怒りを抱いているのは、アントワネットだけではありませんでした。
 アントワネットは、ルイ15世と、その3人の娘たちに、挨拶にいくのが日課となっていました。そして、以前からデュ・バリー夫人を毛嫌いしていた3人の叔母たちが、アントワネットをそそのかしました。
 身分の下の婦人が上位の女性、しかももっとも身分の高い王太子妃という方に対して、公式の場で、自分の方から声をかけることなど絶対にできない。だから、デュ・バリー夫人を徹底的に無視して、大恥をかかせればいいと。

 そして、それは絶大な効果をあげました。

 マリー・アントワネットが嫁いでから数ヶ月経ちましたが、一度たりともデュ・バリー夫人に声をかけません。周囲も次第に気付きます。スキャンダル好きの貴族たちは、これをおもしろがり、公然と侮辱されたデュ・バリー夫人は、真っ青になったり、真っ赤になったり、アントワネットに対抗したり、ご機嫌を取ったり、それでも効果がなく、ついに国王に泣きつきました。
 国王ルイ15世は寵姫にさんざん言われて、仕方なく、パリ駐在のオーストリア大使メルシー伯を呼び寄せ、アントワネットの態度を軟化させるように言いました。
 けれどメルシー伯に諭されても、アントワネットは態度を変えようとしませんでした。
 もっとも身分の高い貴婦人の名誉にかけて、王太子妃の誇りにかけて、下賎な娼婦に声をかけてはならないと、心に決めていたのです。
 けれど、それは、女同士の争いには留まらなかったのです。
 国王の命令に背き、国王を侮辱したことにもなるのです。メルシー伯からその報告を受けた、母マリア・テレジアも、娘の気持ちを理解しながらも、必死に説得にかかりました。

 そして1年半、かたくなに口を閉ざし続けたアントワネットもついに折れ、1772年の元旦の、新年拝賀式に、たった一言、“娼婦”に声をかけたのです。

「今日のヴェルセイユは、たいへんな人ですこと!」

 けれど、マリー・アントワネットは二度と、デュ・バリー夫人に声をかけることはありませんでした。
 この自分の意思を曲げない芯の強さ、誇りの高さ、別の見方をすれば、周囲に合わせることのできない、人を立てることのできない、柔軟性のなさは、次第にマリー・アントワネットに、多くの敵を作ることになってしまうのです。


デュ・バリー夫人
Madame du Barry