あふれた愛
天童荒太 著 集英社
STORY
『永遠の仔』の作家天童荒太の、『永遠の仔』の次に出版された短編集。貞淑な妻の幼い娘への殺意。休職し、ストレス・ケア・センターに通う男性。社会復帰病棟で出会った男女など、日常から少しはみ出てしまった人々を描く、心に傷を持つ男と女の、切なく狂おしいサイコ・ロマン。
イヴ・サンローランに「ベビー・ドール」という名の香水があります。 ピンク色の香水でコマの形のボトルに入っていて、香りはアプリコットのように甘い、フルーツフローラルの香りです。 この香りを嗅いで、イメージにふと天童荒太さんの中編集「あふれた愛」の中の「うつろな恋人」の智子を思い出しました。 ストレスからケア・センターに入院した40代の主人公が散歩の途中で立ち寄った喫茶店のウェイトレスの少女。 溌溂として無邪気な少女に見えたのに、親しくなって、彼女の恋人が書いたという彼女をモデルにした詩を見せられて読むと、思いもしない非常にエロチックな内容だったという。
「あふれた愛」は「永遠の仔」を執筆中に浮かんだものを書かれたとい作品なので、「永遠の仔」の前に発表された「家族狩り」よりも「永遠の仔」に近い世界のように思いました。 心を病んだ人々の、それでもそこには“愛”があって、感動しました。 4つの中編の中で最も好きだったのは「やすらぎの香り」で、そして次に上記の「うつろな恋人」でした。 全部の感想を書くとひじょうに長くなりそうなので「やすらぎの香り」と「うつろな恋人」の2つについて書きます。
「やすらぎの香り」には29歳の女性香苗と、28歳の男性茂樹という2人の物語です。 2人は共に子ども時代の出来事などから心を病んで入院して、その病院で出会い、今は退院して一緒に暮らし、半年が過ぎて大丈夫なら結婚しようと約束しています。 そしてその半年が過ぎるのがあと5日という雨の日から物語は始まります。 雨が降り、駅に傘を持って、仕事から帰る茂樹を待つ香苗。 その情景が目に浮かぶというより、香りを感じました。 雨の日の駅の香り。 シャネルに「アリュール」というフローラル系の香水がありますが、それはつける人によって、違う香りになるそうです。体温や体臭によって変わる。私もたまにつけますが、他の人と違う香りになっているのか実は分かりません。 でも雨は、雨そのものは香りはしないけれど、ものに落ちてきてそれぞれに香りを与えます。 覚えているのは、雨の日の庭の香り、校庭の香り、校舎の香り、駅の香り、電車の香り、コートについた時の香り、髪についた時の香り。 「やすらぎの香り」の2人は、いろいろなことがあって、それでもやってこられて、約束の半年まであと数日というところで、香苗は子供が出来たことが分かり動揺し、籍を入れようとしたその日に茂樹にもそれを知られ、至らないかもしれないけれどそれでも育てていこうと決心した時に、香苗は倒れ、流産してしまいます。 過去に姉が目の前で倒れて死んでしまい、その時に何もできなかったことがトラウマの茂樹は、今度も何もできず、立ち直れないほどの打撃を受けてしまいます。 再度入院した茂樹に会いに来た香苗が、雨の中、もうだめだという茂樹に、今まで2人が書き続けた日記を投げつけるのですが、その時の雨に濡れてしまった本の香りを、読んでいて感じました。 最後に雨の日、再度駅で病院から戻る茂樹を待つ香苗。 そして時間が経ち、ふと後ろに暖かさを感じた“雨に湿った懐かしい体臭”を私も香苗と一緒に感じました。 それが「やすらぎの香り」です。
「永遠の仔」を読み終わった時、優希と笙一郎にはもしかしたら別の、2人で生きていくという生き方があったかもしれないと想像しました。 でも穏やかに生きてきた私の想像は甘く、どこかが違いました。 この「やすらぎの香り」を読んで、やっともしかしたらこうなっていたのかもしれないと思いました。 茂樹は笙一郎より世渡りが下手そうで、香苗は優希より弱いけれど、より女性的でしたが。 もし、岸川夫人が倒れることなく、2人でどこかに行っていたら、「半年生きてみよう」とこんなふうに考えて生きたのかもしれません。 不幸で、でも幸福で、やすらぎの香り。
「うつろな恋人」で智子が恋人が書いたと言った詩は、実はフランスの詩人ヴェルレーヌの詩ということが後に分かります。 彼女の恋人は実は彼女の想像の人間で、智子は自分でも知らずヴェルレーヌのあまり知られていないエロチックな詩を書き写していたと。 けれど一般に知られているヴェルレーヌの詩は、叙情的で美しい詩です。 詩人のヴェルレーヌは、実は大人になれないアダルトチルドレンでした。 妻の実家に同居し、頼りきりで詩を書き、それなのに妻に暴力を振るい、もうすぐ子供が生まれるというのに、若い男の友人、詩人のランボー(恋愛感情あり)と旅行に行ってしまう。 それでも彼の書いた雨の詩はとてもきれいです。 街に雨が降るように わたしの心には涙が降る 心のうちに忍び入る このわびしさは何だろう。
地にも屋根の上にも軒並みに 降りしきる雨の静かな音よ。 やるせない心の おお なんという雨の歌!
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