死 の 泉
作:皆川博子(早川書房)
皆川博子著『死の泉』の扉を開けると、もう1つの書物が現
れます。
ギュンター・フォン・フュルステ
ンベルク著 野上晶訳
『死の泉』
『死の泉』はドイツの翻訳小説として登場し、その
中で物語が展開します。
そして、この『死の泉』という翻訳本が、それを包
む『死の泉』の最大のミステリーになっています。
時は第二次世界大戦、ナチス支配下のドイツ南部が舞台の、幻想的で耽美的なミステ
リーです。
ゲルマン神話、古城、歌う城壁、洞窟、双頭の虚勢歌手、ボーイソプラノ、フェルメー
ルの絵画、美しい子供達、ツィゴイネル
(ジプシー)、残酷なグリム童話、アーサー王と円卓の騎士伝説、オペラ『ファウス
ト』、人体実験・・・ 万華鏡を回すかのように模様は変化し、美しく魔的な世界
が形になります。
遠い昔の神々の時代。
神々の1人ロキが、巨人族の女に3人の子を生ませました。
上の子は狼のフェンリル。中の子は蛇のヨリンゲル。末の娘は、からだの上半分が生
き、下半分が死んでいるヘル。
世界の終末を告げる予言がありました。
“フェンリルは万物の父であるヴォータンを飲み込み、死に至らしめるだろう”
予言におびえた神々はフェンリルを、呪法で作り上げた紐で縛り上げることに成功し
ます。
縛られる条件として、フェンリルの口の中に入れられた、勇気ある神チュールの腕と
ひきかえに。
神々はそんなフェンリルをこころよく笑いました。チュールを除いて。
神の1人がフェンリルの口の中に剣を縦に差し込み、閉じることのできなくなったフェ
ンリルの口から血が溢れ出します。
その川の名を“期待”というのでした。
この神話は物語の中で繰り返されます。
ナチス支配下のドイツでは、もっとも優れた民族アーリアンを推賞し、ユダヤ人やツィ
ゴイネルなどを
劣等民族とみなし弾圧しました。
金髪碧眼の美しいア−リアン。
総統ヒトラーは、国家の子供を欲していたのです。際
限なく。
結果女性の貞節は、国家によって、美徳の座から引き降ろされます。
“女性の第一の義務は、健康な純潔の子供を国家に提供することである”
そして“生命の泉”という組織が誕生します。
未婚のまま身ごもった女性達が、安心して子供を産むことのできる組織。
生まれた子供は母親が育てられない場合は、付属の施設で養われ、やがて、養子を望
むナチ親衛隊(SS)の
家庭にひきとられていきます。
この施設ではアーリアンの孤児達も収容しています。
ドイツの南部、ミュンヘンから少し離れた村落シュタイヘリングにあるレーベンスボ
ルンに所属するホーホラント産院。
この物語の女主人公であるマルガレーテもまた未婚のまま子供を身ごもり、看
護婦として、
ホーホラント産院で働いています。
三部構成の『死の泉』は
第一部のみが一人称体で、マルガレーテの手記として書かれています。
そのマルガレーテの生まれてくる子供の父親が、『死の泉』
の作者と同名の
ギュンター・フォン・フュルステンベルクです。
マルガレーテとギュンターは幼馴染みです。
幼いマルガレーテの記憶。
祖母が語るツィゴイネルの昔話。
村をとりかこむ山々の、どこかにある古い城。
その城壁に耳をつけると、子供の歌声が聞こえてくると。
それは美しい声を持ったツィゴイネルの子供の声。
鈴の音よりも透明で、水車がはねる水玉のように軽やか。
蜜の糸のように聴く人をからめとる。
不思議なことに大人になっても、子供の声を失わなかった。
そして老いて聖職者になったその男はある城に閉じこもり、
その城壁に耳をつけると、美しい子供の声が聞こえてくると。
「それはぼくの城だ」と、貴族で8歳の少年ギュンターは5歳のマルガレーテを城に
連れて行きます。
いつの間にかギュンターの姿はいなくなり、マルガレーテは塔の中、黒い聖職者の前
に立ちます。
聖職者は、無気味なことに2つの頭を持っているのです。
1つの頭は年をとり、もう1つは若く、2つの頭は同時に澄んだボ−イ・ソプラノで
歌います。
そしてマルガレーテはその聖職者からフェンリルの牙のついた首飾りを貰うのです。
けれど13年後に再会したギュンターはその不思議な記憶を、「行っていない」と否定
しますが、美しく成長した
マルガレーテには興味を持ちます。
けれどそれは戦場に向かう若者の一時の恋でしかなく、ギュンターはマルガレーテに
子供が出来たことを知ると、レーベンスボルンを
教え、戦場へと行ってしまいました。
ホーホラント産院でマルガレーテはミヒャエルという男の子を出産します。
その産院でマルガレーテは産院の最高責任者でSS、医学博士のクラウス・ヴェッセ
ルマンに見初められ、結婚を申し込まれます。
病院のクラウスの研究室の、ホルマリン漬けされた畸形児や脇腹で接合された双頭の
ネズミを無気味に感じ、
クラウスに何の愛情も感じなかったものの、子供と自分の将来を考え、マルガレーテ
はクラウスと結婚します。
大財閥の御曹司でもあるクラウスは絵画や音楽などの芸術にも造詣が深く、極端にま
で美を求めています。彼自身はとても美しいとは言いがたい容姿でしたが。
絵画で特に好んだのは、ヒトラーと同じくフェルメ−ルでした。
闇の一瞬、斜め上方から淡い光がさす、静かで奥深い筆致。17世紀オランダのバロッ
クの画家はきわめて寡作で、作品は
三十数点しかなく、作品すべての所有者がリストにのっているといいます。
そしてクラウスの音楽へのこだわりはさらに深く、美しい声の2人の少年を養子に迎
えます。
5歳のエーリヒと10歳のフランツ。
この2人はホーホラント産院に収容された孤児となっていますが、実はドイツが侵攻
したポーランドから、優秀な
アーリアンの特徴を持っているとして、強制的に連れてこられた、いわば誘拐された
子供でした。
幼いエーリヒは次第にポーランドの記憶を忘れていきますが、フランツは心の奥でド
イツを拒否し続けます。
エーリヒは類いまれな美しい声の持ち主で、その声はどこまでも高く美しくのび、声
域に極限などないと思わせました。
フランツは歌の才能よりも、聡明で正義感があり、誰よりもマルガレーテの心の支え
となっていきました。
フランツもまたマルガレーテには心を許し、本当の名前であるポ−ランド名を打ち明
けます。
何不自由ない暮しに、美しい子供達に囲まれ、マルガレーテは穏やかな日々を送りま
す。
けれどクラウスが好んで聴くクラシック音楽のレコードの1つに薄気味悪さを覚えま
す。
無気味なソプラノの歌。悲鳴のような、けれど妙になまめかしい。
それは最後のカストラート、アレッサンドロ・モレスキの貴重なレコードでした。
カストラートとは、去勢することによって、子供の高
い音域を保たせた男性歌手のことです。
かつて聖書に基づき、女性が教会音楽に参加することが許されなかった時代、17、8
世紀の教会や宮廷がこのカストラートを必要としたのです。
もっとも倫理上の観点から19世紀には廃止され、そのレコードも70歳の老人による、
音の悪いものでした。
クラウスの医学の研究は更に異様さを帯びていきます。
命を“永遠”にするという彼の研究テーマ、人工的にシャム双生児のように腰の部分
でつなげられたネズミは、若い方の
ネズミの命を老いた方が吸収していく、いわば“不老”の実験でした。
そしてそれは動物だけでなく人間にまで及んでいきます。
フランツとエーリヒと同様にポ−ランドから連れてこられた双生児の少女レナとアリ
ツェ。
10歳の子供のレナは薬で大人の女性のように成長させられ、妊娠させられます。
けれど実験は失敗に終わり、死にかけたレナに、双生児のアリツェの命が、研究室の
ネズミのように繋がれます。
マルガレーテもまた、安定した生活をホーホラント産院の他の看護婦ブリギッテやモ
ニカに嫉妬され、利用され、命の危機
にさえ、さらされます。それを救ったのがフランツでした。
22歳のマルガレーテが、12歳のフランツに感謝のキスをした場面は美しく、なまめか
しく、不思議な絆を感じました。
マルガレーテの中で、幼い時に一緒に城に行った少年が、いつの間にかギュンターか
らフランツへと変わります。
けれど敗戦間際、エーリヒもまた、その声を永遠にするために、クラウスによってカ
ストールされてしまいます。
残された手紙。
ぼくらを殺した お母さん
ぼくらを食べた お父さん
ぼくらは 決して忘れない
いつか あなたの子を殺す
フランツとエーリヒ
第2部は14年後、フランツとエーリヒによる復讐の物語へと移っていきます。
彼らの狂った人生を作り上げた、神々の王ヴォータンともいうべきクラウスに。
敗戦のためくるったものの、すべてクラウスの望んだままの世界が出来上がっていま
す。
永遠の美しいボーイソプラノのエーリヒ。
腰で繋がれたレナとアリッエ。素晴らしい実験品。
いつの間にかフェルメールの絵画のように、陰影と光を秘めた美しい女性へと変貌し
ながらも、正気を失ったマルガレーテ。
すべては自然のままに美しかったにも関わらず、クラウスによって異形のものへと変
貌していきます。
そしてまた、ゲルマン神話の予言が、神々の父であるヴォータンを滅ぼすべく現れま
す。
上の子は狼のフェンリル。中の子は蛇のヨリンゲル。末の娘は、からだの上半分が生
き、下半分が死んでいるヘル。
神々に騙され、束縛され、血を吐くフェンリルはフランツ。
小さな頃の傷跡を蛇のようといじっていた、マルガレーテの息子ミヒャエルは、ヨリ
ンゲルでしょうか。
からだの上半分が生き、下半分が死んでいる末娘ヘルは、そのままレナとアリツェで
す。
囚われの身となったフェンリルを笑った神々は、収容所などで異民族を弾圧した、今
はないSSのメンバーでしょうか。
そしてもう1つ素晴らしいと思うのは、この物語の中で、フランツとエーリヒが歌う
オペラ『ファウスト』のことです。
『ファウスト』はゲーテの戯曲に基づきグノーがオペラ化したものですが、老哲学者
ファウストが悪魔メフィストフェレスと契約
して、若さを取り戻す物語です。
若さを取り戻したファウストの恋人となるのが、美しい“マルガレーテ”という女性
です。
ゲーテの戯曲でのマルガレーテは、ファウストの全てを知った時、ファウストの子供
を未婚のまま身ごもっていて、周囲からふしだらな女と
して蔑すまれ、生まれた子供を自らの手で池に投じます。
狂ったマルガレーテが牢獄で歌う歌はこのようなものです。
わたしの邪険な母さんが、わたしを殺してしまったの。
わたしのやくざな父さんが、わたしを食べてしまったの。
わたしの小さないもうとは、 わたしの骨をひろいとり、涼しいところに埋め
ました。
わたしはきれいな鳥になり、あれ飛んでゆく、飛んでゆく。
フランツとエーリヒが残した手紙と似ています。
どちらもグリム童話の『ネズの木』の歌に基づいています。
おかあさんに 殺されて
おとうさんに 食べられて
妹マリアが のこらず骨をさがしだし
絹のきれにつつんで
ネズの木の下におきました
ピーチク ピーチク ぼくはきれいな小鳥でしょ
永遠の若さを求めた『ファウスト』の破滅、ゲルマン神話の神の国の終焉、『ネズの
木』の復讐。
そしてツィゴイネルの「歌う城壁」や、アーサー王伝説、実際に双生児を使って行わ
れたナチスの人体実験。全てが混ざりあい、美しい壮大な炎となって燃え上がります。
フェルメ−ルの静謐すぎるほどの闇。
クラウスが作り出した闇は更に深く、けれどもそれだからこそ闇から浮かび上がる人
物は美しく感じます。
時が過ぎても変わらない愛が、一筋の光を投げかけます。
フェンリルの傷ついた傷口を塞いだのは・・・。
くちびるは、からだの持つ小さな傷口。
二つの傷口をあわせると、一つの血がかよう。
流れる血は川をつくる。
その川の名を“期待”という。
石の壁は、異様な艶かしさを含んだソプラノで歌う。
夏の嵐と冬の光をかさねあわせた声。
天上のものであり地獄のものである声。
聴くものを捻(ねじ)れた空間に誘い入れる声。
この物語は、『死の泉』という本の終わった「あと
がき」にまで仕掛けがあり、驚愕します。
そして驚くべきことに、フェルメールの残した数少ない作品の中に、『死の泉』の面
影を見ることは、偶然ではないような気がします。
この『死の泉』の物語の中の神クラウス、『死の泉』を
描いた神ギュンター・フォン・フュルステンベルク、そしてそれらの人間を創作した
皆川博子という作家に更なる神を感じました。
フェルメ−ルの絵画
- 天秤を持つ女
- ディアナとニンフたち
- 手紙を読む青衣の女
- 手紙を書く女
- (右) 地理学者 (左) 天文学者
- 真珠の耳飾りの少女
- 婦人と召し使い
- 合奏
- 信仰の寓意
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