死の嘆き(挽歌)
Totenklage (Dirge)
絵画:Benczur Gyula 「オーストリア皇后エリザベート」
Benczur Gyula, Empress Elisabeth of Austria.
ルドルフの葬儀。息子の棺を抱きしめ、エリザベートは歌う。
ルドルフ、どこにいるの?
私が呼んでいるのが聞こえる?
あなたは、私のようだった…
あなたには私が必要だった。
なのに、自分が自由になるために、
私はあなたを見捨てた。
どうしたら許してくれるの?
もうお終いだわ。
私は…罪を負ってしまった…
泣きながら声が出なくなるエリザベート。フランツ・ヨーゼフがエリザベートの肩を抱き、立ち上がらせる。
棺は僧侶たちに担ぎ上げられ、エリザベートのもとから離れていく。追おうとするエリザベートをフランツが押しとどめるが、静止を振り切ってエリザベートは駆け寄る。ところが鉄格子が降り、彼女と棺を隔ててしまう。
エリザベートは鉄格子にしがみついて叫ぶ。
もう一度だけでも あなたを抱きしめて
この世界から
守ってあげることができたなら!
でも遅すぎた
もう手が届かない
私たち二人とも
一人ぼっち……
エリザベートは鉄格子の向こうにトート(死神)を見る。
エリザベートはトート(死)に、「私も連れて行って」と救いを求めた。
けれどトートは、もう遅すぎる、自分はあなたを欲しくないと拒絶する。
安らかな死にさえ拒絶され、心は既に死にながら生きねばならないことを知ったエリザベートは泣き崩れる。
ルドルフ皇太子の遺体を前に悲嘆にくれる皇帝夫妻と皇太子妃シュテファニー
ルドルフの葬儀
ルドルフの棺の献花のリボンには“シュテファニー(Stephanie)”
そして“ママ(MAMA)”という文字が見えます。
1888年のクリスマスの夜。
ルドルフは久しぶりに母エリザベートに会います。
父フランツ・ヨーゼフと政治的に衝突し、宮廷では孤立し、妻シュテファニーとの仲もうまく行かず、ルドルフは絶望に追い詰められ、既に死のことを考えていたと思われます。
ルドルフはその夜、母にしがみつき、長い間泣いたそうです。
周囲でさえも感動し、もらい泣きしたその時すら、エリザベートは息子の苦悩に気付きませんでした。
その一ヶ月後、ルドルフが自殺した時、ようやく息子の苦しみに気付き、失ったものの大きさに、初めて息子のために泣き崩れました。
悲しみ、絶望、後悔に、エリザベートは二度と立ち直れず、以後、生涯喪服を脱ぐことはありませんでした。
幼い頃の皇太子ルドルフの肖像
Kronprinz Rudolf
子ども時代のルドルフ皇太子が描いた絵画
Kronprinz Rudolf
「少年とくじゃくの馬車」 1867-68年頃の絵
ルドルフは1858年8月21日生まれなので、8、9歳頃の作品と思われます。
ルドルフは幼い頃、祖母ゾフィーの考えにより、軍隊式のスパルタ教育を受けました。
繊細なルドルフは心身共に病むようになります。
けれど7歳の時に母エリザベートの激しい抗議により教育方針は一変し、自由主義的教育を受けるようになりました。
その頃のルドルフの前には、この絵のように明るい青空が広がっていたのかもしれません。
「2羽のつばめ」 1970年頃
11歳頃の絵
「カワガラス」 1872年
13歳頃の絵画
「キバシリ」 1872年
「ゴシキヒワおよびマヒワ」 1872年
子どもの頃のルドルフ皇太子が描いた水彩画です。
絵の隅にルドルフのサインが見られます。
鳥の絵ばかりですが、驚くほど上手です。
ルドルフは子どもの頃から鳥に深い関心を持ち、その観察眼は素晴らしく、12歳で「鷲狩」について100ページの寄稿文を書きました。
父フランツ・ヨーゼフの狩りについていき、特に鳥類に興味を持つようになったようです。
エリザベートは遺品の中にこれらの絵を見つけたでしょうか。
彼女が知らなかった息子の世界です。
ウィーンの王宮におけるクリスマス
皇帝フランツ・ヨーゼフと皇后エリザベート,娘のマリー・ヴァレリー,
皇太子夫妻と娘のエリザベート(エルツィ)
エルツィは人形をもらって嬉しそう。手前のベビーベッドは人形用です。