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絵画:アンドレアス・メラー 「女帝マリア・テレジア」(10歳の肖像)
Andreas Moller, Maria Theresia at the age of 10.


MIDI:ヘンデル 「水上の音楽」第1組曲より 序曲
George Frideric Handel, Water Music Suite No.1 in F, HWV.348, Overture.

 上に掲げた絵画は、マリー・アントワネットの母、マリア・テレジア(1717−1780)、の10歳の時の肖像す。
 聡明な眼差しの、威厳のある、美しい少女です。

 マリア・テレジアは、オーストリアの偉大な女帝として知られていますが、公式には神聖ローマ帝国(オーストリア)の皇帝ではなく、皇帝妃でした。
 マリア・テレジアの父は神聖ローマ皇帝、ハンガリー王、ボヘミア王である、ハプスブルク家のカール6世で、テレジアはその長女でした。カール6世は男子に恵まれず、次期後継者としてテレジアを望みました。
 それまでハプスブルク家は、代々男系相続だったため、カール6世は国事勅書を発布し、国内及び各国に、女系にも相続権を拡大することを明らかにしました。しかし、ハプスブルク家は相続できても、皇帝にはなれなかったため、皇帝には、マリア・テレジアの夫、娘婿であるロートリンゲン公フランツ・シュテファンが就くこととさせました。

 ところが、1740年にカール6世が亡くなると、バイエルン、プロイセン、ザクセンのドイツ諸侯国は、マリア・テレジアの相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできました。これがオーストリア継承戦争(1740−1748)の始まりでした。
 父が亡くなった時、マリア・テレジアは23歳でした。
 夫フランツ・シュテファンとの間に既に3人の子を設け、この時、4人目の子どもを宿していました。テレジアはこれまで政治など教えられたことがなく、頼りにするはずの夫は軍事才能にとぼしく、また度重なる戦争のために、戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは、この女相続人に対し、冷ややかな態度を取りました。

 けれど、マリア・テレジアは屈しませんでした。

 翌年1741年、マリア・テレジアは、ハンガリーに乗り込み、父の後を継いで女王となると、議会でハンリー死守の決意を明らかにして、涙ながらに、必死に救援を訴えました。そんな彼女の姿に、これまで反抗的だったハンガリー貴族達も感動し、彼女を全面的に支持するようになり、マリア・テレジアは、軍資金と兵力を手に入れたのです。
 マリア・テレジアには、何もないわけではかったのです。天性の政治力、そして、人を動かす人間としての魅力をそなえていたのです。
 またプロイセンに対抗するイギリスとオランダの支援も得て、オーストリアはドイツ諸侯国に反撃に出ました。
 そして1743年にマリア・テレジアはボヘミア女王となり、1745年には夫フランツ・シュテファンが、神聖ローマ皇帝(フランツ1世シュテファン)となりました。
 オーストリアはシュレージエンとイタリアのパルマ公国など一部の領地を奪われたものの、戦いに勝利したのです。

 そして、マリア・テレジアは、偉大な“女帝”として、国内外に認められたのです。


ハンガリー議会で演説するマリア・テレジア
抱いているのは長男ヨーゼフ(後のヨーゼフ2世)

 偉大な女帝、マリア・テレジアは、良き妻、良き母でもありました。
 当時としては珍しく、恋愛結婚をした夫フランツ1世との間に16人の子どもを設け、
1765年に夫が亡くなると、自らの死までの15年間、喪服を脱ぐことはありませんでした。
 子どもたちを心から愛したものの、政略結婚をさせ、国の安定をはかりました。
 フランスに嫁がせた末娘、マリー・アントワネットのことは特に心配し、多くの手紙のやり取りをしました。聡明なマリア・テレジアには、娘が破滅へ向かっているのが見え、案じずにはいられなかったのです。それは死の間際まで続きました。

 1780年、11月29日、マリア・テレジアは肺臓硬化で亡くなります。
 死の床で、マリア・テレジアは、子どもたち1人1人の名を挙げ、祝福を与えました。
 そして最後に「フランス王妃マリー・アントワネット」の名を口にした時、涙がこぼれ、嗚咽で喉をつまらせました。

 マリー・アントワネットにとっても、母の死の衝撃は大きいものでした。
 その知らせを受けた時、アントワネットはすぐに兄ヨーゼフに手紙を書こうとしました。
 けれど涙が止まらず、「書いている字がもう見えません」と訴えました。


女帝マリア・テレジア
Kaiserin Maria Theresia