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絵画:フランツ1世
Franz I. Stephan von Lothringen


音楽:モーツァルト ディヴェルティメント kv136 第2楽章
W.A.Mozart, Divertimento for strings in D, K.136, 2nd Mvt

「すでに5歳の頃より、私の心と精神は、ただひとりの男性によって占められてきたのです」

 神聖ローマ皇帝カール5世の長女、マリア・テレジアが5歳の時に出会った運命の人とは、遠縁にあたるロートリンゲン公爵のの次男、兄が急逝した後、世継ぎとなったフランツ・シュテファン、マリア・テレジアより9歳年上の少年でした。
 
 彼はウィーンの宮廷で教育を受け、陽気で親しみやすい性格から、皇帝カール5世に息子のようにかわいがられました。そんなフランツに対して、幼い皇女、マリア・テレジアは淡い恋心を抱き、その想いは次第に深くなっていきます。
 その恋は13年の時を経て、身を結び、1736年、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンは結婚します。
 しかし、名門ハプスブルク家と小国ロートリンゲン公国との縁組はあまりに不釣合いで、しかもハプスブルク家は、花嫁マリア・テレジアが継ぐことが濃厚になってきたため、周辺諸国から激しく反発されました。
 そのため、フランツは、フランス国王ルイ15世に、故国ロートリンゲン公国(現在のフランス領ロレーヌ地方)を譲らなくてはならなくなってしまったのです。
 このロートリンゲン、フランス読みのロレーヌは、現在フランス共和国の一部で、アルザスと共に、鉄鉱石と石炭を産出す裕福な土地です。アルザス・ロレーヌは、フランスとドイツの国境に近いことから、戦争のたびに戦勝国の所有となった悲劇の場所です。

 脱線しますが、このアルザス・ロレーヌの悲劇は、アルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語』の中の一編「最後の授業」でも、描かれています。1人の少年の目を通して、昨日まで行われたフランス語の授業が、今日を最後に、明日からドイツ語の授業に変わる悲しみ。次の日から、フランスの“アルザス・ロレーヌ”は、ドイツの“エルザス・ロートリンゲン”に変わるのです。

 故国を譲渡してまでしたハプスブルク家の縁組でしたが、フランツは宮廷の重臣からも、ウィーン市民たちからも見下され、夫婦の間に3人続けて女の子が生まれ、男子が生まれないことまで、フランツのせいにされました。

 1740年に、カール5世が亡くなり、マリア・テレジアがハプスブルク家を継承し、それを不満に思ったドイツ諸侯国が攻め込んできます(オーストリア継承戦争)。
 マリア・テレジアは断固として戦うつもりでしたが、フランツは、オーストリア軍が弱いため、条件次第ではプロイセンとの和平を結ぶことも考えていました。見ていられなくなったマリア・テレジアは、自らが実験を握り、秘めていたカリスマ性を発揮し、ついにはオーストリアを勝利に導きます。それ以降、フランツは政治に関して、マリア・テレジアに反論しないようになります。

 1745年、フランツは神聖ローマ皇帝に即位します。けれど実権はマリア・テレジアが持っていたため、フランツには政治的実権はありませんでした。
 こんな屈辱を受けて、優秀な妻に対して、対抗するとか、弱気になるとか、フランツにはそんな気持ちはありませんでした。元々自分は政治には向いていないことを、彼は知っていました。妻に政治を任せ、自分は自分の楽しみを追い求めることにしたのです。
 そしてフランツは、オーストリアに学問、芸術、さらには産業、経済に貢献していくことになります。
 特に経済、蓄財と興業に関して、彼は素晴らしい才能を発揮しました。巧みに資産を運用し、小さな農村や村落を、莫大な利益を生む農地や産業地域へ変え、資産を増やしていきました。
 1765年にフランツが急死した時、彼が莫大な財産を残したことに、人々は驚きました。また、彼の寛大で温かな人柄はいつの間にか愛されていて、大勢の人が彼の死を悼んだのです。

 マリア・テレジアは、政治的手腕はなくとも、明るく愛情深い夫を、生涯愛し続けました。幼い日の初恋の人、夫、大勢の子どもたちの良き父親。マリア・テレジアは、夫の死を深く悲しみ、夫の死後自身が没するまで喪服しか着用しませんでした。

「すでに5歳の頃より、私の心と精神は、ただひとりの男性によって占められてきたのです」

 フランツは、女帝マリア・テレジアにとって、かけがえのない、ただ1人の、生涯の恋人でした。


マリア・テレジアとフランツ1世
Maria Theresia and Franz I.