ロマノフ王朝最後の皇女
アナスタシア
Anastasia(1901-1918?)
巨大な帝国ロシアで、1613年に始まったロマノフ王朝の歴代の皇帝の中には、4人の女帝が存在しました。
その中でも名高いのは、ロシアの最後の女帝、エカテリーナ2世(1729〜1796 在位1762〜1796)でした。
彼女は、ポーランドの大部分を併合し、トルコ艦隊を破って黒海沿岸を確保するなど、ロシアを大国へと導き、またエルミタージュ美術館の創設など貴族文化を頂点にしました。
彼女は晩年、自分の死後もロシアが大国であれるように、無能な長男のパーヴェルではなく、その息子で頭脳明晰なアレクサンドル(後のアレクサンドル1世)を皇位につけようとしました。
エカテリーナは、夫であるピョートル3世を廃し、その殺害を黙認し、帝位につきましたが、そんな母を、パーヴェルは愛することはできませんでした。
エカテリーナ女帝は、皇位を孫のアレクサンドルに譲るという遺言を、正式に発表できないまま、1796年に亡くなってしまいます。
女帝の死後、パーヴェルが皇位につき、パーヴェル1世(在位1796〜1801)となりますが、国民にも廷臣にも愛されなかったパーヴェルは、在位わずか数年で、暗殺されてしまいます。
4男6女と子宝に恵まれ、母を嫌っていたパーヴェルは、その短い在位期間に、一つの法律を定めました。
“皇位継承権は男子に限ること”
時は100年過ぎ、1901年1月22日、英国では偉大な女王、ヴィクトリアが亡くなりました。
そして、その5ヵ月後の6月18日、彼女の孫で、ロシアの皇室に嫁いだアレクサンドラが、1人の子どもを出産しました。
皇帝の子どもが生まれると、祝砲があげられます。
男子なら300発、女子なら101発でした。
そしてこの時あげられた祝砲は101発で終わりました。
101発の祝砲・・・、皇帝ニコライ2世(1868〜1918 在位1894〜1917)の時代になってから、祝砲が101発で終わったのは、これで4度目でした。
父親であるニコライ2世は、生まれたのが女の子だと聞いた時、1人で長い散歩に出かけました。
そして戻ってくると、優しい微笑みを浮かべながら部屋に入り、妻と生まれたばかりの娘にキスしました。
その女の子が、アナスタシア・ニコラエブナ大公女殿下でした。
生まれたばかりのアナスタシアには姉が3人いました。
6歳のオリガ、4歳のタチアナ、2歳のマリアです。
父と母は皇族同士の結婚なのにも関らず、心から愛し合っていて、娘達にも深い愛情を注ぎました。
ただ2人そろって、社交嫌いで、特に母のアレクサンドラは、ロシア宮廷の堅苦しいしきたりに馴染めず、世継ぎも生めないことから肩身が狭く、公式行事の参加も嫌がりました。
そんな2人が好んだのは、首都ペテルブルクから南に25キロのところにある、ツアールスコエ・セローにあるアレクサンドル宮殿に行くことでした。
宮殿の裏の湖には、「子どもたちの島」があり、姉妹達はそこに、それぞれ自分の家を持っていました。
幸せな幼年時代を送っていたアナスタシアが、もうじき3歳になろうとする、1904年2月、日露戦争が始まりました。
そして5月、大帝国ロシアの艦隊は、小国と侮っていた日本に大敗したのでした。
そしてロシア全土で、大敗の抗議が広がっていくのです。
けれど、この同じ年の8月12日、ロシアでは嬉しい出来事が起こりました。
皇帝の子どもが誕生した、祝砲が鳴り響いたのです。
100発、101発、そして102発目が!
ついに300発の祝砲が、鳴り響いたのでした。
そして砲声はロシア中で響き渡り、教会の鐘が鳴りました。
ついに待ち望んだ男子、アレクセイ・ニコラエヴィッチ殿下の誕生でした。
許しが出るとすぐに、9歳のオリガ、7歳のタチアナ、5歳のマリア、そして3歳のアナスタシアは育児室に入りました。
幼いアナスタシアは、爪先立ちをして、小さな子どもベッドの、生まれたばかりの弟を覗きました。
自分より小さな赤ちゃんは初めてでした。
跡継ぎが誕生した皇帝と皇后の喜びは、たいへんなものでした。
皇帝ニコライ2世は、アレクセイが誕生した、8月12日の日記にこう記しています。
「決して忘れることのできない、素晴らしい一日・・・今日の午後1時15分、アレクサンドラが男の子を生んだ。祈る時、私たちがいつもアレクセイと呼んでいた男の子を」
その天使のような金髪巻き毛の青い目の赤ん坊(後に褐色の直毛になります)は、宮廷に幸せを運んできてくれたように思われました。
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左からタチアナ、オリガ、マリア、アナスタシア(1906)
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