マリー
              ギョーム・アポリネール
                    飯島耕一 訳

少女よ きみはそこで踊っていた
やがておばあさんが踊るだろうか
はねまわるマクロット・ダンス
鐘がもうじき鳴り渡るだろう
マリーよ 一体いつ帰ってくるのか

仮面の人たちが黙っている
音楽はあんなに遠く
空の奥からやってくるようだ
そうだぼくはあなたを愛したい けれどもそれはやっとのこと
してぼくの不幸は甘やかだ

羊は雲のなかに去って行く
羊の毛の房 銀の房
兵士が通りすぎ
どうして一つの心さえ所有できないのか
あの変わりやすい変わりやすい心 そしてぼくにはわからない

どうしてぼくが知ろう おまえの髪がどこへ行ってしまうか
泡立つ海のようにちぢれた髪が
どうして知ろう おまえの髪がどこへ行ってしまうか
ぼくたちの誓いがまきちらす
秋の葉のおまえの手が

ぼくはセーヌのほとりを歩いていった
古い一冊の本をかかえて
川はぼくの苦しみに似ている
流れ流れてつきることを知らない
週は一体 いつ終わるのだろう


Marie
                  Guillaume Apollinaire

Vous y dansiez petite fille
Y danserez-vous mère-grand
C'est la maclotte qui sautille
Toutes les cloches sonneront
Quand donc reviendrez-vous Marie?
 
Les masques sont silencieux
Et la musique est si lointaine
Qu'elle semble venir des cieux
Oui je veux vous aimer mais vous aimer à peine
Et mon mal est délicieux.
 
Les brebis s'en vont dans la neige
Flocons de laine et ceux d'argent
Des soldats passent et que n'ai-je
Un coeur à moi ce coeur changeant
Changeant et puis encore que sais-je?
 
Sais-je où s'en iront tes cheveux
Crépus comme mer qui moutonne
Sais-je où s'en iront tes cheveux
Et tes mains feuilles de l'automne
Que jonchent aussi nos aveux?
 
Je passais au bord de la Seine
Un livre ancien dessous le bras
Le fleuve est pareil à ma peine
Il s'écoule et ne tarit pas Quand donc finira la semaine?


ミラボー橋
              ギョーム・アポリネール
                    堀口大學 訳

ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ
  われらの恋が流れる
 わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると

  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る

手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう
  こうしていると
 二人の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる

  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る

流れる水のように恋もまた死んでゆく
  恋もまた死んでゆく
 命ばかりが長く
希望ばかりが大きい

  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る

日が去り 月がゆき
  過ぎた時も
 昔の恋も 二度とまた帰ってこない
ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる

  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る


Le Pont Mirabeau
                  Guillaume Apollinaire

Sous le pont Mirabeau coule la Seine
    Et nos amours
   Faut-il qu'il m'en souvienne
La joie venait toujours après la peine

  Vienne la nuit sonne l'heure
  Les jours s'en vont je demeure

Les mains dans les mains restons face à face
    Tandis que sous
   Le pont de nos bras passe
Des éternels regards l'onde si lasse

  Vienne la nuit sonne l'heure
  Les jours s'en vont je demeure

L'amour s'en va comme cette eau courante
    L'amour s'en va
   Comme la vie est lente
Et comme l'Espérance est violente

  Vienne la nuit sonne l'heure
  Les jours s'en vont je demeure

Passent les jours et passent les semaines
    Ni temps passé
   Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine

  Vienne la nuit sonne l'heure
  Les jours s'en vont je demeure





1880年8月26日、「ミラボー橋」などで知られる詩人ギョーム・アポリネールはイタリア のローマで、将校とポーランド女性との間に、私生児として生まれました。
本名は母方の姓を名乗った、ウィルヘルム=アポリナリス・ド・コストロヴィッキーです。
母が父と別れ、ローマから、モナコ、ニースと移りながら学校を出た後1899年にパリに出てきて、貴族の家の家庭教師をします。

そして詩作をするうちに、1904年、画家のパブロ・ピカソと知り合います。
当時のピカソの絵は、「青の時代」「バラ色の時代」で、悲哀に満ちたアルルカンなどの絵にアポリネールは惹かれます。
ピカソの絵は次第に変化し、キュビズムの絵になっていきます。アポリネールは最初は驚いたものの、世間に理解されないピカソを庇護する文章を書き始めます。

そしてピカソのアトリエ「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」で、やはりキュビズムの芸術家、ジョルジュ・ブラックを通して、女流画家画家マリー ・ローランサンと運命の出会いをするのでした。

この時ローランサンは22歳、アポリネールは27歳でした。
二人は恋に落ちました。

けれどローランサンはやがて「洗濯船」のメンバーたちが熱心に描いていた キュビズムの絵に違和感を覚えるようになります。そして一つの事件が起こったのをきっかけに、アポリネールとの6年間の恋が終わります。

1911年8月22日ルーブル美術館から名画「モナ・リザ」が盗まれるという事件が起こり、その捜査が行われていた中で、アポリネールの秘書のピエレが、ルーブル美術館から彫像を盗み出して、アパートに隠していたということが発覚したのです。
アポリネールは共犯を疑われ、1週間拘留され、結局ピエレも含めて、無実だと分ります。
けれどそれがもとで、嫉妬深くなったアポリネールに、ローランサンはついてゆけなくなり、翌年彼の元を去ってしまい、アポリネールは絶望します。

「マリー」「ミラボー橋」、この二つの詩は、別れから2年後、1913年に刊行された『アルコール』という詩集に収められています。
『アルコール』は句読点を使わないという画期的な手法を用いた詩集でした。
二つの詩は、どちらの詩も恋人だった、マリー・ローランサンとの恋をモチーフにした作品です。

ローランサンは別れをきっかけに、画家として自立し、別れた後もアポリネールと文通を続けていましたが、『アルコール』が出版された翌年、ドイツ人画家と結婚し、ドイツ国籍となった彼女は、スペインに亡命してしまいました。

この年、1914年の7月に、第一次世界大戦が始まり、アポリネールはただちに志願します。
この時はポーランド国籍でしたが、1916年2月にようやくフランス国籍を取得できました。
けれど翌月である3月、前線で頭部に重症をおいます。
アポリネールは除隊し、その頃知り合ったジャクリーヌと1918年6月に、ピカソらを証人にして、結婚します。

けれど頭部の怪我の予後に苦しみ、その当時流行していたスペイン風邪にかかり、38歳の若さで、死んでしまうのです。
死の枕元には、彼が生涯愛し続けたマリー・ローランサンの「アポ リネールと友人たち」の絵が架かっていました。



友人にめぐまれたアポリネールの葬儀には、ピカソ、マックス・ジャコブ、ジャン・コクトーなどの、芸術家が集いました。

一方訃報をスペインで聞いたマリー・ローランサンも、深くその死を悲しみました。
アポリネールは彼女との恋をモチーフにした「ミラボー橋」で、“月日は流れ わたしは残る”とうたっていますが、皮肉なことに、残されたのはローランサンの方でした。

ローランサンとの恋の破局の苦しい時期、アポリネールをなぐさめたミラボー橋から眺めたセーヌの流れ。
詩「ミラボー橋」は1952年、歌手兼作曲家レオ・フェレの手でシャンソンとなり、第二次大戦後復興期のパリ市民の愛唱歌ともなりました。

ローランサンは、アポリネールの死後、38年間を画家として生き、シャンソンとなった「ミラボー橋」が流れるパリで、1956年、心臓発作のため、亡くなりました。73歳でした。

埋葬は、ローランサンの遺志通りにされました。
白い衣装に赤いバラを手に、そしてアポリネールからの手紙を胸の上に置いていたのです。