絵画:クロード・モネ 「干潮のラ・エーヴ岬」(1865)
The Pointe de La Heve at Low Tide 1865
MIDI:メリカント 「アルバム・リーヴス」


1865年のサロンの展示はアルファベット順に展示されました。

そのため入選したモネの2作品
「オンフルールのセーヌの河口」と「干潮のラ・エーヴ岬」は、
この年のサロンでもっとも悪評が高くスキャンダラスな作品の、
両側に並べられたのです。

それは2年前にスキャンダルとなった「草上の昼食」に続く、
マネの問題作「オランピア」でした。


エドゥアール・マネ「オランピア」(1863)

裸婦ということは問題はないのですが、
この「オランピア」は明らかに当時のパリの娼婦を描いていたからでした。
傍らの黒人のメイドは客からの花束を持ってきていいます。
また「オランピア」という名も、
同時代の作家アレクダンドル・デュマ(フィス)(1824-1895)の
『椿姫』(1848)に登場する娼婦の名前でした。

サロンの会場ではこの絵の前に大勢の人が群がり、
ステッキをふりまわすため、2人の守衛がつき、
それでも危ないというため、手の届かない場所に移し変えられる有様でした。

そんなスキャンダラスな作品と並べられたモネの2作品でしたが、
「オランピア」と雰囲気があまりに違うことと、
またモネとマネという名前の類似から招いた混乱から、
モネまで世間に注目されることとなりました。

けれどそれだけでなく、モネの海景画は、他の絵画に比べ傑出していて、
前ページのように批評家達から絶賛を受けました。
「干潮のラ・エーヴ岬」は版画出版業者で画商でもあった
アルフレッド・カダールに300フランで売れました。
モネが本格的に描いた作品が売れたのは、この時が初めてでした。
またカダールは、この時、ブーダン、ヨンキント、マネの作品も一緒に買い取っており、
先見の明があったというべきでしょう。

このサロンで絵画が並んだことがモネとマネが知り合わせ、
親しくなるきっかけとなりました。
そしてマネとその作品に接することにより、
サロン好みの伝統的な作品を描いたモネは、
マネと同様にサロンに衝撃を与える作品を提出するようになります。

1866年のサロンに出品できなかったものの、モネ自身の「草上の昼食」を描き、
そして1867年にはモネが真に描きたいと思った戸外の光の中に人物を描いた作品
「庭の女たち」(1866)を提出することになるのです。

なお1865年のサロンに、マネはモネと同じように2作品を一組にして、
サロンに出品していました。
意外にも、それは彼の数少ない宗教画で、
「辱めを受けるキリスト」(The Mocking of Christ)(1865)でした。


エドゥアール・マネ「辱めを受けるキリスト」(1865)