絵画:
シャルル・グレール 「山から帰るダフニスとクロエ」(1862)
Charles Gleyre(1808-1874)
Daphnis Et Chloe Revenant De La Montagne
1862
MIDI:
ハイドン 弦楽四重奏 第17番より「セレナーデ」
少年時代をル・アーブルで過ごしたモネは、1859年に生まれ故郷のパリに行き、
アケデミー・シュイスという私立の画塾に入り、絵の修行を本格的に始めましたが、
1860年の秋から1862年の初めにかけて、兵役でアルジェリアで暮らします。
病気になり、6カ月の休暇を取ると、
後見人であり裕福であったソフィー伯母が、
残る5年間の軍務を免除してもらうための支払いをしてくれました。
モネは数カ月をル・アーブルで過ごすと、パリに戻ってきました。
そして当時人気画家の1人であったシャルル・グレールの画塾に入りす。
グレールはサロンの趣味に応じた美化された線の絵画を描きましたが、
温厚な人柄で、生徒達には自由を与え、
自分独自のスタイルで描くように言っていました。
グレールは、ある時、モネの作品を見てこう言います。
「悪くはない。決して悪くはない。
そう、あれを描いているのだね。
しかし君はモデルの特徴に正直すぎる。
君の前には、背の低いずんぐりした男がいる。
そうすると君は、背の低いずんぐりとした男を描くというわけだ。
彼の足は、とてつもなく大きい。
そうすると君は、ありのままにそれを描く。
醜いものばかりじゃないか。
君に忘れてもらいたくないものがある。
それは、人物を描く時には、
常に意識して古代の美術にのっとるように努めなければならない、ということだ。
君、自然にしたがうのもいいが、
それは、あくまで修行のひとつの要素にすぎない。
そんなものは面白くもない。
様式だよ。
様式がすべてなのだ」
(引用文献:アサヒグラフ別冊特集 西洋編5「モネ」 朝日新聞社))
モネはこのアカデミックな教育に、深い不信感を抱きますが、
それでもこの塾に通い続けたのは、
志を共にする、若い画家たちと出会えたからでした。
それはフレデリイック・バジール、アルフレッド・シスレー、オーギュスト・ルノワールでした。
後の印象派の中核となる画家たちは、このグレールの塾で、出会ったのです。
グレールの 「山から帰るダフニスとクロエ」等の、
ギリシャ神話や聖書を題材にした絵画を観た時、
モネなど生徒たちが、その指導を受け入れられなかったというのも、
分かるような気がしました。
「ダフニスとクロエ」などは、私の
「ドリアン・グレイを探して」
特集に、
飾りたいような美少年の絵なのですが、
印象派の絵画とは、あまりに違う古典の世界でした。
そんな彼のもとに、良い生徒たちが集まったのは、
人柄や信頼性ががあったからだと思います。
ブーダンとグレールという、モネの2人の師の絵画を観て、
モネが受けた影響と反発を、理解できたような気がします。
Romans Under the Yoke