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さみしい王女

金子みすヾ


つよい王子にすくはれて、
城へかへつた、おひめさま。


城はむかしの城だけど、
薔薇もかはらず咲くけれど、


なぜかさみしいおひめさま、
けふもお空を眺めてた。


(魔法つかひはこはいけど
あのはてしないあを空を、
白くかがやく翅(はね)のべて、
はるかに遠く旅してた、
小鳥のころがなつかしい。)


街の上には花が飛び、
城に宴はまだつづく。
それもさみしいおひめさま、
ひとり日暮れの花園で、
真紅(まっか)な薔薇は見も向かず、
お空ばかりを眺めてた。





金子みすヾさんの第三詩集『さみしい王女』から、タイトルともなった「さみしい王女」という詩です。
夢見がちだった金子みすヾさんが、結婚により現実に引き戻され、夫から詩を書くことも、創作仲間との文通さえ禁じられてしまった苦しい時に書かれた詩です。

みすヾさんの童謡は、有名な「大漁」にしても「星とたんぽぽ」にしても、弱いもの、いたいけなもの、美しいものに対して、子どものような無邪気さで接し、ほんわかした優しさの中に、悲しみがほんの少し入っています。
けれどこの「さみしい王女」は悲しみの方が大きくて、その中にみすヾさんらしい優しさと無邪気さが,、儚げに添えられています。

大好きな花を以前のように、心から楽しめない悲しみ。
私も、かつての一つの秋、大好きな薔薇を心から楽しめないつらい時があり、この短い詩に涙が出ました。

この詩に一つの映画を思い出します。
一見何の不自由もなく、家庭や仕事に恵まれ幸せそうに見える3人の女性の、死さえも考えるほどの深い心の闇を描いた「めぐりあう時間たち」です。
彼女達より、もっともっと恵まれない人達も不幸な人達もいますし、必死に幸せそうな演技をしながら、誰にも知られず、心は崖っぷちに来ています。
心の闇は、そんな風に書くと、とてもとてもつらいけれど、みすヾさんの言葉は、そんな時でさえも限りなく優しく感じます。
「めぐりあう時間たち」の3人のうちの1人は、後に子どもから「怪物」と呼ばれてしまいますが、「さみしい王女」という言葉は、なんて優しくて悲しいのだろうと思います。

「めぐりあう時間たち」は、やはり女性に人気のようですが、もう一つ、女性からとても人気の少女漫画「NANA」(矢沢あい著)にも、こんな印象的な言葉があります。
“夢が叶うことと幸せになることは どうして別ものなんだろう”

さみしい王女であることは、せつないです。

かつての子ども時代の方が素晴らしかったのか。そうは思いません。
いくらでも美化はできますが、それはきっと子ども時代を忘れてしまっているのです。
“子どもの涙はけっしておとなの涙より小さい ものではなく、おとなの涙より重いことだって、めずらしくありません”
ケストナーの児童文学「飛ぶ教室」の言葉は胸を打ちます。

みすヾさんは死を選び、「めぐりあう時間たち」の女性達は生を選びます。

でも悲しみに沈んでいる時でさえも、花が咲くというのは、やはり素敵です。
泣くことさえ忘れてしまう何もない場所に比べ、花の咲く場所は、花にそそぐ涙の雨を降らすことがます。

私にとってつらかった秋は、薔薇の存在を無視し、秋の花々を見ないふりはできても、香りだけは無視できませんでした。
朝、自転車を走らせていると、甘い香りが漂ってきて、ふと目をやると、鮮やかなオレンジの金木犀がありました。
モノトーンだった世界に色彩が戻り、また花がとても愛しく感じられました。
金木犀の花言葉は、「高潔な人」「謙遜」、そして「真実」です。
「真実」をもう一度見つめられるようになって、もう一度「愛」の花言葉を持つ薔薇を、美しいと感じられるようになりました。